主観が入った「まやかし理論」に気をつけよう ・・・濁音とは何かを中心に・・・
ことばは意味を伝えるばかりでなく、イメージを伝える働きをする。意味は文字で正しく伝わるが、イメージは音によって正しく伝わってゆく。
すぐれた感性を持つ現代人は、音相を有効に使って言語生活を行なっているが、ことばに対して常々次のような疑問や悩みを持っている。
1.「美しいことば」と音との関係がわからない。
2.「センス」と「感覚」など、同義語間でイメージの違いが生じる根拠がわからない。
3.大衆に好感を受ける語と、受けない語の仕組みの違いは何なのか。
だがことば科学は、これらについて応えてはくれない。
そのため文筆を業とする人や、ことばを専門に研究している人たちが、個人の主観的な感想を、客観価値があるかのように押し付けてきて世間を惑わせている。
ある人は言う、「怪獣の名にはガ行音が多い。それはこの音が子供の好む音だからだ」と。
だが、ガ行音は暗く、重々しく、存在感のある、無邪気な子供が恐れ、逃げ出したくなる音なのだ。怪獣の名はそういうおどろおどろしさをねらってつけたものなのだ。
また、
まじり合ひて 濁らぬ泡や 冬泉
という句を、著名な俳句評論家が次のように批評した。
「前半にある濁音が、この句から清澄な印象を奪ってしまった」(原文のまま)と。
この句はたしかに清澄感の表現に欠けるが、その理由は暗く沈んだイメ-ジを作る有声音の異常な多用と、清澄感に欠かせない無声摩擦音の使用が極度に少ないことによるものだ。
現代の日常語の場合、有声音の使用割合は、平均的に音節数(拍数)の60%程度だが、この句の場合「て」1音を除く17音(94%)が有声音でできているし、清澄感の表現に欠かせない無声摩擦音は「ふ」一音しか入っていない。
また「濁音」は18音中3音と標準よりはるかに少ないから、清澄感を欠く原因とはなっていないし、まして前半の濁音「じ」はこの場合その根拠にはなっていない。
濁音が作る表情には「優雅、落ち着き、平穏、存在感、暗さ、重さ……」など多くがあるが、前後に配されている音相基(音)との関係で、中の一つが顕在的に機能するのである。
ことばの音のイメージはういう仕組みでできているから、すべての場合「濁音は清澄感のない音」などと言い切ることもできないのだ。