●単音だけでことばのイメージは捉えられない | 日本語好きな人、寄っといで

●単音だけでことばのイメージは捉えられない

 書店で「日本語はなぜ美しいのか」という本を開いてみ他。その中にことばが作るイメージは、音の単位である子音、母音が持つ個々のイメージを集めるだけで得られるように書いてある。
 この方法で一部のイメージが捉えられる語もないではないが、「サ(sa)」「ク(ku)」「ラ(ra)」という単音の表情を集めただけで、「さくら (桜)」という意味を持つ語のイメージを捉えることはできないし、この方法では「さくら(桜)」と「くらさ(暗さ)」のイメージ差を説き明かすこともできないはずだ。
 意味を含んだ「ことば」のイメージは、破裂音、摩擦音、有声音、無声音、逆接拍、順接拍、無声化母音などの単位(・・・これらを音相基という)に下げて捉えなければ得られるものではないのである。
またイメージには、音相基同士の響合いから生まれるものや、いくつかの表情語の集まりが作る「情緒」もあり、これらを総合することで 始めてことばのイメージは捉えられるのだ。
 ちなみに、音相基の数は40種、音相基が響き合って生まれる表情は38種、表情語の集合から生まれる情緒の数は、現在明確に捉えているものだけで44種ある。
 前項で「トヨダ」と「トヨタ」の違いを述べたが、イメージをあれほど大きく変 えた原因を「ダ」と「タ」の違いだけでどうして説明できるのだろうか。

 単音でイメージを捉える試みは、鎌倉時代に音義説というのを説いた人がいたが、客観的な根拠説明ができないところから近代言語学の発達と共に姿を消した。
 そういうものを今なぜ新たな発見のように言うのだろうか。現代のことば科学のひ弱さを感ぜずにはおられない。